先日、創作仲間と「人類最後の一人になっても小説を書くか」
という雑談をしました。
仲間のほとんどが「それでも小説を書く」と答えました。
私はそのことにとても驚きました。
「だれにも読んでもらえないんだよ。生き残りは一人もいない」
と再度尋ねました。それでも彼らは「書く」のだと言いました。
それがみんなと私の創作に対する姿勢の違いです。
「純粋な楽しみとして小説を書いている」のか、
「だれかに喜んでもらうために小説を書いている」のか。
情けないことかも知れませんが、
だれにも喜んでもらえなくなったとき、
私は小説を書く意味を見失うのです。
インターネットの世界で「山田佳江」として活動するようになってから、
たくさんの人に親しくしていただきました。
さみしがりやの私には、それはとても幸福な体験でした。
そうしてそれと同時に、
私の存在を不快に思う人も増えていきました。
(真摯に作品批評をして下さっている方々のことではありません)
ネットストーカーや荒らしと呼ばれる人たちが対象を攻撃するとき、
完全な「征服感」や「多幸感」を体感するのだと、
私は無邪気にも信じていました。
そのような形でも、私のことをコンテンツとして消費して貰えるのなら、
ぎりぎりのラインで苦痛に耐えることもできていたのです。
「対象を傷つけることにより、その人もまた傷ついている」
という可能性に、私は気づいていませんでした。
ネット上の創作活動で、ささやかに「山田佳江」の名を知られることになり、
嬉しいことも悲しいこともたくさん起こりました。
「有名税だよ」と人は笑うかも知れません。
「こっちに戻っておいで」と仲間は言ってくれるかもしれません。
だけど私はずっと同じ場所に立っているのです。
どこにも行ってなどいないのです。
いくつもの精神的なダメージが重なり、
山田佳江のライフゲージは0を切りました。
それまでもぎりぎりのところで
たくさんの方からの応援でなんとかライフを補充してきたのです。
そろそろこころが限界のようです。
大切な人に迷惑をかけてまで
見てくれている人を不快にさせてまで
創作活動をする意味など私にはないのです。
山田佳江は山田佳江であることを
しばらくお休みさせていただこうと思います。
だれにも名の知れていない、ひとりぼっちのただの主婦に戻って、
混乱した頭を整理してこようと思います。
そうしてまたこころを充分に満たして、
戻ってくることができるといいなと思います。
私に関わって下さった全てのみなさま、
ほんとうにありがとうございました。
追伸:福岡ポエイチにはブースをとってあるので参加します。